歴史の散歩道 A狭野神社~D天の逆鉾
A狭野神社(さのじんじゃ Sano Shrine)
神武天皇は幼名を狭野尊(サノノミコト)といいましたが、これは尊が降誕されたこのあたりの地名からとったものと言われています。
社伝によると狭野神社の創建は非常に古く、第五代孝昭天皇の時代で二千数百年も昔。古墳時代よりも千年も前のことですので創建当時の歴史資料は残っていませんが、その後第30代敏達天皇の時代には別当寺として神生院(のちに神徳院)が建立され、さらに第62代村上天皇の時代には性空上人によって霧島六社権現が創始されるなどの記録があることから、日本という国が成立した頃には、すでに神域として相当の伝統をもっていたことがうかがえます。
狭野神社は霧島の麓にあることから、霧島山噴火の被害をたびたび受け、中でも延暦7年(788)や文暦元年(1134)、さらに享保3年(1718)と過去三度も、社殿が焼失するほどの大噴火に見舞われています。それでも歴史の皇室、藩主の崇敬が厚かったことから、そのたびごとに復興し、神武天皇にまつわる伝説とともに、その歴史を現代に伝えています。
狭野杉と仏法僧
神武天皇は幼名を狭野尊(サノノミコト)といいましたが、これは尊が降誕されたこのあたりの地名からとったものと言われています。社伝によると狭野神社の創建は非常に古く、第五代孝昭天皇の時代で二千数百年も昔。古墳時代よりも千年も前のことですので創建当時の歴史資料は残っていませんが、その後第30代敏達天皇の時代には別当寺として神生院(のちに神徳院)が建立され、さらに第62代村上天皇の時代には性空上人によって霧島六社権現が創始されるなどの記録があることから、日本という国が成立した頃には、すでに神域として相当の伝統をもっていたことがうかがえます。
狭野神社は霧島の麓にあることから、霧島山噴火の被害をたびたび受け、中でも延暦7年(788)や文暦元年(1134)、さらに享保3年(1718)と過去三度も、社殿が焼失するほどの大噴火に見舞われています。それでも歴史の皇室、藩主の崇敬が厚かったことから、そのたびごとに復興し、神武天皇にまつわる伝説とともに、その歴史を現代に伝えています。
B霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ Kirishima-Higashi Shrine)
天孫ニニギノミコトが降臨された際、初めて祖先の神々を祀ったところと伝えられる霧島東神社は、古くから皇室や島津家の信仰も厚く、狭野神社とともにまさに神代の頃からの歴史を継承しています。別当寺である錫杖院は康保3年(966)、性空上人が開いた霧島六所権現のひとつ。古来、霧島は天孫降臨の聖地であることとあわせて、噴火を繰り返す自然の厳しさの象徴として山岳信仰の場として日本有数の霊場でありました。霧島六社権現は、霧島で修行をする修験者たちの拠点となったところです。
霧島東神社の創建は第10代崇神天皇の代といわれていますが、霧島の相次ぐ噴火のために由緒書など資料のほとんどを焼失しているのが惜しまれます。
C霞神社(かすみじんじゃ Kasumi Shrine)
霧島六所権現の使者とされる白蛇にちなんで、霞権現として信仰を集めてきた霞神社。
歴代島津藩主の庇護も厚く、狭野神社の別当寺としての歴史もあります。
古くから畜産の神様として知られていましたが、現在は商売繁盛、縁結び、受験合格祈願の参拝者が多く、4月15日の例大祭には山頂まで人の列が続きます。
D天の逆鉾( あまのさかほこ Ama-no-Sakahoko)
霧島の主峰、高千穂峰。その山頂にすくなくとも江戸時代にはあったという天の逆鉾(賢鉾)が建てられています。これは降臨したニニギノミコトが「浮きたる島の如く見ゆるものを、鉾でかきさぐり」高千穂峰の山頂に逆さにたてものであるといわれています。
その名の通り、霧が発生しやすい霧島は雲海の名所。霧の海に浮かぶ峰々は島が浮かぶようにみえ、それを鉾でかきさぐったイメージは、ニニギノミコトよりもはるか昔、イザナギ、イザナミの国生み神話にある「混沌の中から天の沼茅をもって島々を生んだ」という情景を彷彿とさせます。
坂本龍馬と天逆鉾
1866年、坂本龍馬は新婚旅行で妻のお龍(りょう)と霧島を訪れ、高千穂(たかちほの)峰(みね)に登り、二人で天(あまの)逆鉾(さかほこ)を引き抜いたとの記録が残っています。(龍馬は高原町に来たんですね。)このことは姉の乙女(おとめ)に宛てた書簡にて確認できます。逆鉾にある天狗のような顔を見て二人で大笑いしたそうです。龍馬は逆鉾を気にいったのか、書簡には詳細に描かれたイラストがつけられています。このころ天逆鉾の存在は広く知れ渡っており、多くの参拝者が訪れていました。
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