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コラム「高原町の歴史(神話編1)」

神武天皇説話(その1)

 さて、高原町は「神武天皇生誕地」と観光等で宣伝しています。高原町の歴史を色々と考える上で、ここは避けては通れません。今回は「神武天皇」伝承について考えてみましょう。

 まず初めに、神武天皇について簡単に説明しますと、「神武天皇」という名称は、8世紀半ばに付けられた漢風諡号(しごう)、つまり生前の評価等を考慮して死後に付けられた名です。この「神武」という名は、奈良時代に淡海三船が考えたと言われています。
 一方、『古事記』には「神倭伊波禮毘古命」、『日本書紀』には「神日本磐余彦尊」とあります。どちらも「カムヤマトイワレヒコノミコト」と呼びます。「神日本」は後の敬称と考えてよいでしょう。「磐余(いわれ)」は奈良県桜井市近辺の地名で、「彦」は古代豪族の王等によく見られる名前ですので、単純には「磐余の王者」という意味になります。
『日本書紀』によると、鸕鷀草葺不合尊と玉依姫の第四子として生まれ、15歳で皇太子となり、吾平津姫と結婚しました。45歳の時、一族と共に東征を決意し、様々な敵を打ち破り、大和国の橿原宮で即位しました。この即位したのが紀元前660年2月11日とされ、それが今の「建国記念の日(戦前は紀元節)」の由来となっています。
 即位後の神武天皇76年、橿原宮で崩御。享年127歳となっています。
 問題は「神武天皇」の実在性です。実在、非実在様々な意見がありますが、現状は歴史学的には実在性に乏しく、様々な説話が「神武天皇」に集約された、と見て良いのではないでしょうか。

 では、高原町に伝わる神武天皇の伝承は、いつから、どのように伝わっているのでしょうか。現代から昔へと遡ってみましょう。
 現在伝わっている伝承は、町制施行に際し作成された『高原郷土史』(昭和9年)に準拠しています。記されている地名は次の通りです。
○皇子原(御腰掛石・産場石・皇子瀧・皇子河原・皇子権現)
○血捨木・赤池
○祓原・祓川
○皇子港
○宮の宇都
○都街道
○狭野渡
○馬登・鳥井(鳥居)原
 これを見ると、『高原郷土史』が作られた時点では今と遜色ない内容である事がわかります。
 では、それ以前はどのように記されているのか見てみましょう。
                                                                  (文責 大學 康宏)