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コラム「高原町の歴史(神話編2)」

神武天皇説話(その2)

 高原町における「神武天皇説話」について、最も詳しく記しているのは、天保14(1843)年に編纂された薩摩藩の地誌『三国名勝圖會』です。少し引用してみましょう。

神武天皇御降誕の所
 蒲牟田村、狭野の内、権現洞にあり、今平地の内、広さ四段許、少し堆き地の又方二間許少し高き処あり、両石地中より出て相並ぶ、上古霧島山火起りて焚し故、此辺の石は、皆焚焼を歴て、石の色替れるに、此両石は焼だる色なし、土人由緒ある霊地なりとて牛馬を繋がず、此両石相並ぶ地を、神武天皇御降誕の所なりといへり、蓋神武天皇の皇父鸕鷀草葺不合尊の皇宮、即ち此所にて、其両石相並ぶ地は、神武天皇御降誕の時、産舎を建てられしならん、今神幣を立て是を標とす、此皇宮址の左右は、水田・陸田相接す、又上古は狭野権現社、及び神徳院、此所にありしといふ、是れ此皇居の辺に、神社を建られ、瓊々杵尊等を崇奉あり、後に神武天皇を、其東脇に奉祀せしと見えたり、前條狭野社に所述と併せ考ふべし、権現洞とは狭野権現社所在の故に、名を得たるならん、
(『三国名勝圖會』巻之五十六)

 箇条書きにすると、以下のようになります。
・神武天皇は「権現洞(ごんげんのうと?)」で生まれた。
・そこには、産屋にちなんだ二つの石がある。
・皇居もその付近にあった。
・皇居跡の左右には水田や陸田が広がっている。
・かつてそこには狭野権現社や神徳院があった。

 皇子原公園の一画、皇子原神社の祠の隣に「産場石」なる、頭が二つ飛び出た石があります。これが上記の石に該当すると現在では言われています。よって、『三国名勝圖會』における神武天皇の生誕地は、現在の皇子原を指していると考えて良いでしょう。
 しかし、この地は「高原町古墳」と呼ばれる6基の詳細不明の古墳が点在しており、とても社殿が建つような場所ではありません。また、水田が作られるような場所でもありません。
 この内容が史実を表しているとは言いがたいですが、少なくとも、この地が「神武天皇生誕地」というのは、『三国名勝圖會』編纂に際し記載するべき内容というのが当時の認識であった事がわかります。

 ただ、同じ『三国名勝圖會』の都城の部分には、都城がいわゆる皇宮跡でその地を「都島」と呼んでいた事、永和元(1375)年にこの地を治めた北郷讃岐守義久が「都島」を改めて「都城」とし、それが周辺地域を含めた地名になった事、皇宮跡は宮丸村にある事、等が記されています。この「都島」、現在の都城跡の一画に石碑が残っています。
ここ以外にも宮跡伝承は複数あったようで、「周辺に神話に因んだ地名がたくさんあるので、宮の地をあちこちに変えていたのだろう。」的なまとめ方で終わっていますが、「神武天皇は高原で生誕した」というのだけは共通事項になっています。
                                                                  (文責 大學 康宏)