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コラム「高原町の歴史(神話編3)」

神武天皇説話(その3)

 さて、次の文献を見てみましょう。次は白尾国柱の『麑(げい)藩名勝考』です。
 これは、薩摩藩士で国学者の白尾国柱(1762~1821)が、寛政7(1795)年に薩摩藩内の古跡名勝の由来や伝承等について著したものです。白尾は、この他に『神代三陵考』や『倭文麻環(しずのおだまき)』等の書物も著しています。
 では、『麑藩名勝考』の狭野神社の部分を少し引用しましょう。

此地ハ神武天皇岳降ノ故社ナリ、書紀曰、狭野尊亦號神日本磐余彦尊、所称狭野者、是年少時之號也、後撥平天下奄有八州、故復加號曰神日本磐余彦尊、又曰御諱彦火々出見、神武ノ御幼名ヲ狭野ト申セシハ、コノ狭野ノ地ニテ聖誕アリシ故也トイヒ傳フ、

 この『麑藩名勝考』によると、「岳降」の意味がわかりにくいのですが、意訳すれば「降臨した」でしょうか。書き方は難しいですが、「神武天皇生誕地」と同じ意味と考えて良いと思います。また、「神武天皇の幼名を狭野と言うのは、この狭野の地で生まれたからだ」ともしています。
 その生まれた根拠については、次のように記されています。

當廟本社ハ瓊々杵尊ヲ奉祀シテ、其他開耶姫以下玉依姫ハ相殿トシテ附祭ラレシヤウニ見ヘヌレハ、是神武ノ御時ニ其皇曽祖王父タル瓊々杵尊ヲ崇奉シ玉ヒシナルへシ、古ハ天子皇宮ニヲヒテ祖宗ノ神ヲ親祭シ玉フハ、

「當廟」すなわち狭野神社において、瓊瓊杵尊以下神武天皇以前の神を祀っている、これはかつて神武天皇が祖先神を祀っていた名残だ、というものです。
 現在の狭野神社は神武天皇を主祭神としていますが、江戸時代は、神武天皇以前の陰陽六神を「霧島六所権現」として祀っていた事が判明しています。

 いささかこじつけめいた感がなくもないですが、この時点では、「高原(狭野)」=「神武天皇の生誕地」という認識があった事がわかります。

 これまでは、地誌等の、高原の外から書かれたものを見てきました。次は、高原の中で書かれたものを見てみましょう。

                                                                  (文責 大學 康宏)