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コラム「高原町の歴史(神話編4)」

神武天皇説話(その4)

さて、次は地元の狭野神社の古文書を見てみましょう。

まず初めに、『日州高原狭野権現社附神徳院由緒帳』、これは寛保2(1742)年に作られた、狭野権現社(今の狭野神社)及び社内にあった神徳院という寺院の来歴等を記した古文書です。この古文書では、どのように触れているのでしょうか。

 抑狭野之地者畏昔神武天皇御垂迹之神刹也、神武天皇狭野王子ト云

 書かれている内容の意味は、前述の『麑藩名勝考』と変わりませんが、「垂迹」と言う言葉が気になります。「垂迹」とは、「本地垂迹」という言葉で登場する事が多いですが、一般的には仏や菩薩等が衆生を救うため、神等の仮の姿で人々の前に現れる事を言います。この場合「垂迹」という言葉を使った意味は不明ですが、「天皇」というより、神武天皇が何かの仏の仮の姿と考えたのかもしれません。

次の記述を見てみましょう。

 右脇宮者安座白山権現神武天皇之二躰

 当時の狭野権現社の社殿に祀られていたのは、前述の『麑藩名勝考』でもあった陰陽六神で、神武天皇は「白山権現」と一緒に右脇宮に祀られていたようです。「白山」とは、北陸地方にある白山の事で、「白山大権現」「白山妙理権現」とも呼ばれ、全国各地に祀られました。
 この時期は、今のような扱いではなく、主祭神以外の神の一つという扱いであったようです。

 この古文書より少し前、享保20(1735)年もしくは翌年に作られた『霧嶋山縁起續禄艸案』を見てみると、そこにも「神武天皇鎭座于脇宮者也」と記されているように、脇宮に祀られていた事がわかります。
 但し、その後の記述を見ると、少し違った内容が記されています。

 脇宮両社
   左神武天皇也 古記又云白山権現亦云神武天皇又云回禄退轉失舊記不詳云云

 これを見ると、脇宮に祀られているのは「神武天皇」としているものの、「白山権現」であったのか「神武天皇」であったのか、「記録がなくてわからない」と、非常に曖昧な感じであった事がわかります。

                                                                  (文責 大學 康宏)