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コラム「高原町の歴史(神話編5)」

神武天皇説話(その5)

 次に、同じ狭野神社文書で寛文12(1672)年に作成された『高原宗廟狭野大権現来由』を見ましょう。
 慶長17(1612)年、狭野社で行われた遷宮の記録を見ますと、脇宮については次のように記されています。

一 脇宮兩社
  右宮白山大権現本地十一面観世音
  左宮性空上人兩侍者安乙與若神童如次本地不動明王毘沙門天

 これを見ると、前回見た古文書では、脇宮の右あるいは左にあった神武天皇の名称が消えている事がわかります。

 これまで見た文献を整理しますと、

○『高原宗廟狭野大権現来由』(寛文12・1672)
 ・脇宮右 白山大権現(本地は十一面観世音)
 ・脇宮左 性空上人に仕えた乙と若(本地は不動明王・毘沙門天)

○『霧嶋山縁起續禄艸案』(享保20・1735)
 ・脇宮右 経津主命(春日明神)・武甕槌命(諏訪明神)
 ・脇宮左 神武天皇(又は白山権現)

○『日州高原狭野権現社附神徳院由緒帳』(寛保2・1742)
 ・脇宮右 白山権現・神武天皇
 ・脇宮左 性空上人に仕えた乙と若

 となり、たった百年の間にずいぶんこんがらがった状態になっていますが、一つ言えるのは、脇宮に神武天皇を祀るのは、少なくとも寛文12年にはなかった事になります。

                                                                  (文責 大學 康宏)