コラム「高原町の歴史(神話編6)」
神武天皇説話(その6)
狭野神社文書『高原宗廟狭野大権現来由』(寛文12・1672)には、次のような一文があります。
一 御寶殿者
地神第三代天饒石國饒石天津彦々火瓊瓊杵尊、陰神木花開耶姫命
第四代彦火々出見尊、陰神豊玉姫命
第五代彦波瀲武鸕鷀艸葺不合尊、陰神玉依姫命
右崇重三代六神樹六所大権現名稱、又一説第四代自彦火々出見尊至神武天皇崇
陰陽六神云云回禄退轉失𦾔記故不詳之
宝殿には、三代の瓊瓊杵尊と木花開耶姫命夫妻、四代の彦火々出見尊と豊玉姫命夫妻、五代の鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命夫妻、この六神を霧島六所権現としている一方、一説として、彦火々出見尊夫妻から神武天皇夫妻までの六神を六所権現とするというのもあるが、記録がなく不詳である、というものです。
これを見ると、脇宮よりは昇格したように感じますが、もう一つの神武天皇の扱われ方である「生誕地」を見ると、『日州高原狭野権現社附神徳院由緒帳』(寛保2・1742)では「狭野は神武天皇の生誕地」という明確な表現があるのに対し、上記の『高原宗廟狭野大権現来由』や、年の『霧嶋山縁起續禄艸案』(享保20・1735)にはそのような表現は見られず、どちらも「狭野は昔、霧島大権現(又は霧島神社)が鎮座した地」とあります。
文献が少ないため現状で判断するのは危険ですが、少なくとも「神武天皇」という存在は、1700年代初めまでは神の一つとしては認識していたものの、狭野に関係あるとまでは認識していないのに対し、1700年代半ば辺りから徐々に狭野と神武天皇を結びつける意識が芽生え、当初は漠然と生誕地を狭野としていたのが、時代が下るに従い、より具体的な場所に比定したのではないでしょうか。
少なくとも、今よりは「神武天皇」という存在にあまりとらわれていない事だけは言えるでしょう。
(文責 大學 康宏)
一 御寶殿者
地神第三代天饒石國饒石天津彦々火瓊瓊杵尊、陰神木花開耶姫命
第四代彦火々出見尊、陰神豊玉姫命
第五代彦波瀲武鸕鷀艸葺不合尊、陰神玉依姫命
右崇重三代六神樹六所大権現名稱、又一説第四代自彦火々出見尊至神武天皇崇
陰陽六神云云回禄退轉失𦾔記故不詳之
宝殿には、三代の瓊瓊杵尊と木花開耶姫命夫妻、四代の彦火々出見尊と豊玉姫命夫妻、五代の鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命夫妻、この六神を霧島六所権現としている一方、一説として、彦火々出見尊夫妻から神武天皇夫妻までの六神を六所権現とするというのもあるが、記録がなく不詳である、というものです。
これを見ると、脇宮よりは昇格したように感じますが、もう一つの神武天皇の扱われ方である「生誕地」を見ると、『日州高原狭野権現社附神徳院由緒帳』(寛保2・1742)では「狭野は神武天皇の生誕地」という明確な表現があるのに対し、上記の『高原宗廟狭野大権現来由』や、年の『霧嶋山縁起續禄艸案』(享保20・1735)にはそのような表現は見られず、どちらも「狭野は昔、霧島大権現(又は霧島神社)が鎮座した地」とあります。
文献が少ないため現状で判断するのは危険ですが、少なくとも「神武天皇」という存在は、1700年代初めまでは神の一つとしては認識していたものの、狭野に関係あるとまでは認識していないのに対し、1700年代半ば辺りから徐々に狭野と神武天皇を結びつける意識が芽生え、当初は漠然と生誕地を狭野としていたのが、時代が下るに従い、より具体的な場所に比定したのではないでしょうか。
少なくとも、今よりは「神武天皇」という存在にあまりとらわれていない事だけは言えるでしょう。
(文責 大學 康宏)