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コラム「高原町の歴史(神話編7)」

神武天皇説話(その7)

 さて、高原町に残っている(というか、今言われている)場所とその由来は、『高原郷土史』(昭和10・1935)には以下のように記載されています。

○皇子原・・・狭野尊(神武天皇)の生誕地
○御腰掛石・・・狭野尊が腰掛けた石
○産場石・・・助産婦が居住した、もしくは産湯使用の場所
○血捨之木と赤池・・・生誕の際に穢れ等を捨てた場所
○祓原・・・生誕の際に汚れを祓い清めた場所
○祓川・・・お祓いの際に水を汲んだ場所
○皇子瀧・・・狭野尊が遊んだ瀧
○皇子河原・・・狭野尊が散策した川原
○瀧駒・・・狭野尊が乗馬の稽古をした場所
○皇子港・・・狭野尊が遊んだ場所
○皇子権現・・・狭野尊兄弟の宮跡
○宮の宇都・・・瓊瓊杵尊が造った高千穂宮の跡
○都街道・・・宮の宇都と皇子原の通路
○狭野渡・・・狭野尊が東征に向かう際、最初に渡った川
○馬登・・・狭野尊が東征の際、初めて馬に乗った場所
○鳥井原・・・地元住民が狭野尊出立を見送るために鳥居を立てた場所

 ざっとこんな感じですが、高原町における神武天皇東征のストーリーとしては、宮の宇都(もしくは皇子原)から高原を出て行くまで、です。ここで、ちょっとした疑問。ストーリーが出来上がり過ぎかなとも思いますが、「鳥井(鳥居)原」という場所は、高原町と都城市高崎町の境にある地名。この辺りの地理がわかる方なら、「何で(都城市)高崎町に行くの?」という疑問が浮かんでくるはずです。一つの考えですが、江戸時代、「綾往還」という街道が国分(鹿児島県霧島市)から高原を経由して綾方面に抜ける街道があったようですが、それが高原から高崎へ抜けていたようで、その名残かな、とも。
 これを何も考えずにそのまま使用すれば楽なのでしょうが、やはり「いつからこの伝承はあるのか?」という検証は必要になります。

                                                                 (文責 大學 康宏)