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コラム「高原町の歴史(神話編8)」

神武天皇説話(その8)

 さて、狭野神社文書の中に、明治27(1894)年に書かれた『狭野神社由緒取調草稿』というものがあります。どこに提出するための調査書類なのか不明な部分はありますが、書かれた当時の狭野神社の詳細が書かれているので、これはこれで重要な古文書です。
 そこには、「神武天皇は狭野で誕生した」と明確に記している上に、それに類する地名とその由来を列挙しています。それを見てみましょう。
 まずは「皇子原」。「本社ヨリ西ニ當リ八町(一町は約109メートル)位ノ所ニアリ」とあるので、現在の皇子原を指していると考えて間違いないでしょう。ただ、「ここに仮宮があって、狭野皇子が時々来た」というもので、今の話とはけっこう異なっています。
 次に「産場石」。この文書では「本社ヨリ三十町余ノ所ニアリ」とあります。現在、産場石は皇子原とほぼ同じ場所にあるという認識ですが、この文書では、八町(約870メートル)と三十町(約3,270メートル)と、かなりかけ離れています。加えて、「霧島峯ノ山腹ニ當リ高キ事拾数町余現今深山幽谷ニシテ諸種ノ樹木繁茂シ鬱蒼タル地」とあり、かつての皇子原がそんな感じの場所だったかもしれませんが、それでも約2キロも相違があるのは、当時の「産場石」「皇子原」は、今示している場所とは異なるのでは?とも考えられます。
 次に「祓原」、今は何となく祓川集落をイメージしていますが、「産場石ノ南ニ當リ一面ニ樹木繁茂シタル淵」と、かなり具体的に書かれている上に、産場石のすぐ近くにある書き方なので、皇子原近辺を想定していたのでしょうか。そして同じ場所とされる「祓川」、今は先と同じ祓川集落を想定していますが、「祓原ヨリ流レ出ル川」とあり、もう全然今とは違っています。
 次に「皇子河原」。「皇子原ト産場石ノ北ニ沿フテアリ」とあり、前とは逆に今と全然違わない認識の場所です。今の認識が正しくて、文書の距離感がおかしいのか、今となっては判断できませんが。
 一番異なるのは「鳥井原」。「往古狭野原領地ノ時一ノ鳥居アリシ所」と、今言われている「神武天皇を見送るために鳥居を立てた所」よりも、かなりしっくり来る、現実的な由来です。
 この他に文書では、「赤池」「血捨之木」「山神原」「狭野渡」「宇都」「宇都後」「向祓川」等の地名を挙げ、神武天皇と縁ある地名である、とさらっと書いて終わっています。
 素朴に思うのは、明治29年ですら今とこれだけかけ離れた状況という事は、今のように整理されたのは、少なくとも明治29年以後、昭和10年以前、という事だけは言えるでしょう。
 『宮崎県史』によると、昭和15年に皇紀2600年を迎えるにあたり、宮崎県では同12年に祝典奉賛委員会が設置され、そこで神武天皇の聖蹟伝承地を14箇所決定し、文部省に調査を申請しました。国が示した、奉祝行事で大きな予算を使って全国の聖蹟地を整備するという事業に当て込んだものかと思います。結局、高原町では、皇子原と宮之宇都は県奉賛委員会により標柱が立てられましたが、それ以外の場所は、町で組織された顕彰会が標柱を立てています。私見ですが、県奉賛委員会に聖蹟を申請する際、「高原町にはいっぱいあるぞ!」的な感じで、町内の地名のストーリーを作り上げたのかもしれません。

                                                                 (文責 大學 康宏)