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コラム「高原町の歴史(町内の地名編1)」

町内の地名はいつからあるの?(その1)

 さて、これまで高原町における「神武天皇説話」の成り立ちや経緯についてお話ししました。
 そこで登場した地名は、いったいいつ頃から出て来るのでしょうか。今回はそれを含めた町内の地名を、古文書から見てみましょう。

 高原町における一番古い地名、それはもちろん「高原」という地名なのですが、いつからあったのかは明確ではありませんが、江戸時代初期の写文書の内容に、西暦1400年代に「高原」という地名が見られます。

 次に高原の中の古い地名ですが、下にある地名が一番古いのでは、と考えています。

一 小森江介谷川金兵衛畑酉池之堤ニ而被打果候右者
  上意ニ而被打果候但伏見へ飛脚被仰付候為致途々
  ニ付被打果候竹下斎藤樋渡ゟ切也、是者徳永淡路
  ゟ油断被仕ニ付被打果候非道之死也

 これは、『高原所系図壱冊』という、江戸時代の高原郷の動向等について記された一級史料です(『高原町史料集一』参照)。作者は高原郷で代々与頭(くみがしら)や噯(あつかい・郷士年寄)職を務めた永浜家の者で永浜師次、年代は「天保四年之改」とあるので、天保4(1833)年にこれまであった史料を編纂・追記したものです。

 先ほどの内容を意訳すると、小森江介と谷川金兵衛が「畑酉池」の堤で上意により殺害された。討ち果たしたのは竹下・斎藤・樋渡。徳永淡路による謀(?)による「非道之死」である、と記されています。時期的には前後の文脈から、天正17(1589)年と考えられます。
 上の内容しか書かれていないので、原因等は全く分からないのですが、ここで「畑酉池」なる地名が登場します。これもどこなのか全く分からないのですが、似たような地名で、広原地区に「鳩取山(地元では「はっとりやま」と言います)」という地名があります。今のところはその辺りかな?と推測しています。

                                                                 (文責 大學 康宏)