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コラム「高原町の歴史(町内の地名編2)」

町内の地名はいつからあるの?(その2)

 先ほど登場した徳永淡路、その後も色々あったようで、その後に勃発した庄内の乱にも登場します。

 庄内の乱は、慶長4(1599)年、島津家の重臣伊集院忠棟(幸侃)を島津忠恒(後初代薩摩藩主島津家久)が伏見屋敷において殺害した事に端を発します。当時庄内のいた忠棟の嫡子である伊集院源次郎忠真は、父殺害の報を聞いた後、居城である都之城に籠城し、周辺の城を含めて島津氏との戦闘状態に入りました。

 この戦闘で島津氏をはじめ九州の諸大名も出兵しました。最終的には徳川家康の調停により、翌慶長5(1600)年、伊集院忠真は降伏し都之城を退去しました。

 その後、野尻で島津忠恒に殺害されました。現在の小林市野尻町には供養塔があります。

さて、この庄内の乱に際して、『高原所系図壱冊』には次のような記述があります。

 伊集院源次郎殿籠城十貳外城籠ル、同四年五年軍有
 此時ニ山田城六月廿三日落散、此時高原衆中
 徳永淡路兄弟鳥井原ニ而切腹三月

 庄内の乱が終結した慶長5年、徳永淡路兄弟が「鳥井原」にて切腹した、との事です。

 これは、庄内勢に通じていた徳永淡路兄弟が、当時の高原郷の行政等を取り仕切る「川添壱岐」を殺害した事によるものです。「国分御城」に伺いを立てた結果切腹となった次第ですが、ただこの時期は国分に城(ここで言う国分の城は、現在の霧島市国分小学校にあった国分城跡)はなく、隣の隼人の富隈城に居た島津義久を指すのかもしれません。

 処刑場等は、関所や郊外等に設置される事が往々にしてある事を考えると、当時、高原の境界として「鳥井原」が意識されていたのでは、とも考えられます。

 少し血なまぐさい話でしたが、今のところ文献で確認できる町内の地名では、「鳥井原」はダントツに古くからある地名のようです。なぜそれが「狭野神社一の鳥居」という伝承に至ったかは謎ですが。


                                                                 (文責 大學 康宏)