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コラム「高原町の歴史(町内の地名編3)」

町内の地名はいつからあるの?(その3)

 元禄10年(1697)、藩内の各家に残る系図や古文書等の調査が行われた事が『高原所系図壱冊』に登場します。藩から来た検者に対し、高原地頭や噯役が立会のもと、各家から提出されたそれらの古記録の調査及び書写が行われました。その中の一つ、黒木家から提出されたのが、次の記録です。

  写本
 一 作坪付   黒木助左衛門殿旨
     日州諸縣郡高原之内七十丁石持しき
 一 段ほり切一同黒鳥川内
     天正五年宛 上井次左衛門秀穐
         九月 日
          黒木土佐守殿

 奥書に何故日付が入っていないのか、若干疑問には残ります。
 これは、天正5年(1577)、上井次左衛門秀穐(秀秋とも)から黒木助左衛門(土佐守)に宛てられた書状です。ここに登場する地名が、「黒鳥川内」「ほり切」です。場所は花堂集落の東側、台地の上に「黒鳥川内」、台地と川の間に「堀切」が今も小字として残っています。
 上井秀穐(うわいひであき)は、島津義久の家臣で日向支配を任された上井覚兼(うわいさとかね)の弟で、島津義弘の家老を務めた後、小林郷や綾郷の地頭等を務めた重臣です。この書状の頃は今のえびの市にあった馬関田(まんがた)郷の地頭で、何故高原郷の者にこういった書状を発給したのかは、原本が今は伝わっていないので不明です。


                                                                 (文責 大學 康宏)