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コラム「高原町の歴史(町内の地名編4)」

町内の地名はいつからあるの?(その4)

 さて、古文書に登場する地名のいくつかは、現在にも存在している事が前回のお話でわかりましたが、その一方、「どこそれ?」という地名もたくさん登場し、読む人間を悩ませるのもまた事実です。

 次の記事は、同じく『高原所系図壱冊』の、延宝9年(1681・同年9月に天和に改元)5月の記事。理由は不明なのですが、この年、高原郷から高崎郷が分離独立し、それに伴い、郷内の村の編成が変わりました。高原と高崎は元々隣り合っているという事もあり、少なくとも戦国時代は同じ「高原」として扱われていた事がわかります。
 「高原」の範囲ですが、「どこからどこまで」という確かな根拠(リアルタイムの文献や古地図等)はないものの、例えば、『高原所系図壱冊』には、1500年代初め頃は「高原江平志和知野の見谷高崎一所ニシテ」とあります。また、『庄内地理志』には、いつの時代の記事なのか不明ですが、「高城・高原・都城三方境、志和地之内王子之下川原より縄引初、右高原、左都城之内 境縄引左之通」という記述が出て来ます。これによると、志和池辺りまでは高原之領域であったと読む事ができます。

 話を戻して、延宝9年、まず、高原郷に含まれていた「前田村」「大牟田村」「縄瀬村」が新たに高崎郷として分離独立しました。「江平村」の名称がありませんが、「江平村」はこの時野尻郷に属していたので、今回の分郷には関係ありません。
「蒲牟田村」「後川内村(入木村)」「麓村」は改めて高原郷となり、高崎郷分離独立により減少した村の補充として、小林郷から新たに「広原村」が、野尻郷からは「水流村(現在の都城市下水流町辺り)」が高原郷に加えられました。「
 さて、この分郷の際に、定められた境界の記述です。

  境立テ赤水ハ花繰ヨリ鳥井原之辻子コモノ一本松長尾山境立松尾道ならの木山
  山神後山の神狭野原ニ移ル也右山神山田理庵老進立之由申傳也鳥井原松ゟ東者
  尾牟礼ノ塔ノせトウ五輪之切石有夫ゟ東ハ大平原ノ當地也温水山境立

 はっきり言って、どこがどこなのか。「鳥井原」はさすがにこれまで触れたあの「鳥井原」とわかるのですが、それ以外は・・・。「赤水」は祓川の下に「赤水川」とあるので、それを指すのか。「長尾山」は都城市高崎町の東霧島神社の西側に「長尾山」があるので、それでしょうか。「温水山」は下後川内の「温水平」辺りなのか。それ以外は今のところさっぱりです。中には地名というよりは単に石塔等の目印の類いとも思われるものもありますが。同じ薩摩藩内でも、郷の境界は、双方の役人立会のもと、厳格に定められているようです。

 余談ですが、再び配置換えが起こったのは明治3年(1870)、薩摩藩庁により、高原・高崎郷は合郷され、小林地頭管轄とされました。さらに、高原郷にあった水流村は上荘内(庄内)郷に配置換え、代わって高城郷の東霧島村が高原郷に加えられました。

                                                                 (文責 大學 康宏)