ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織でさがす > 教育総務課 > コラム「高原町の歴史(災害編その1)」

コラム「高原町の歴史(災害編その1)」

災害(地震)について(その1)

 さて、令和6年8月8日午後4時42分、日向灘を震源として、宮崎県内で震度6弱の非常に大きな地震があり、高原町でも震度5弱を記録しました。幸い目立った被害はありませんでしたが、これぐらいの大きな地震は、昭和43年2月21日に発生したえびの地震以来でしょうか。その時の高原町の震度は不明ですが、震度4か5弱ぐらいでは、と思われ、地元の話によると、「家が波打っていた。」そうです。

 さて、江戸時代にも様々な災害がありました。まずは地震関係について『高原所系図壱冊』から。

一 嘉永七年寅十一月五日昼之七時下刻ニ大地震有之居家諸所ニたおる嶽崩事大風の
  ごとく地震の跡ニ聞得候里より見る大崩ひなもり嶽の南脇之廻比向平上下大崩有
  其外数多シ半時計之相に少々の地震昼夜やます明後七日朝四時ニ又地震又半時も
  相有少々の地震有之候度々やます

 これは、嘉永7年(1854)11月5日の昼の七時下刻(だいたい午後4時半頃)、大地震が発生し、山が大風のように崩れた、とあります。年月日及び時刻から、歴史的に見れば「安政南海地震」の事を記している事がわかります。ちなみにその前日の11月4日は、「安政東海地震」が発生し、総称して「安政の大地震」と言われています。

 さて、この11月5日の大地震、日向国内では色々と被害があったようですが、なぜか薩摩藩の史料には殆ど載っておらず、どの程度被害があったのかもよくわかりません。被害等があれば藩に報告するはずなのですが、報告された形跡が見当たりません。『高原所系図壱冊』にもこれしか記されていないので、大きな地震であったものの、高原郷では、人的・物的被害はほとんどなかったのかもしれません。

 ここで登場する「山」ですが、後を読んでいくと「ひなもり嶽」つまり現在の「夷守岳」である事がわかります。すなわち、この地震(によると推測されていますが)により夷守岳南脇が大きく崩れた、とあります。

 今、夷守岳を見ると、あちこち崩れたような痕跡が見られますが、このうちのどれかは安政南海地震で崩れた痕跡かも知れません。


                                                                 (文責 大學 康宏)