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コラム「高原町の歴史(災害編その2)」

災害(地震)について(その2)

 今回取り上げるのは、いつもの『高原所系図壱冊』から。と言っても、高原郷内で起きた災害ではなく、国外で起きた災害。
 『高原所系図壱冊』は、高原郷の役職付であった永濱家の当主が代々公私の事を書きためたものなので、高原郷の動向が中心と思いきや(もちろん中心なのですが)、結構薩摩藩外の動向についても書いている事が多いのです。
 今回は、その中の一つを。

 嘉永七年寅四月六日午之刻
 一 右午之刻より 京都大火事 仙洞御所之内御泊殿より出火、
   辰巳之風強直ニ内傳所邊江火移り、禁裏御所并仙洞御所一時ニ
   炎上り仕 近衛様御宸殿并両御門上を屋根板等者粗取除候得共
   無御別条、何分東風強相成、一条様・今出川様・日野様其外
   段々焼祓、烏丸通町家江火移、凡北ヲ今出川通、南者下立賣通限り、
   堀川打越御所司氏御役宅、北之方者壱町餘之所焼祓、千本通迄焼祓、
   夫ゟ乾之方糸屋町西陳江焼廣がり末火鎮り不申候

 これは、嘉永7年(1855)4月6日の午刻(午前11時~午後1時頃)、仙洞御所(現在の京都御所の敷地内の一角)の建物から出火、強風により燃え広がり、北は今出川通、南は下立売通、堀川にあった京都所司代の屋敷、千本通、西陣の方まで消失した、との事。

 不思議なのは、薩摩藩の一郷の記録にしては、いくら京の都の事とは言え、詳細すぎるんですよね。
 ここで、この京都大火について、京都での記録に基づいて考察された、「近世京都の火災と復興-嘉永七年の大火と安政内裏造営期の京都-」(鈴木栄樹、2007)(以下『鈴木2007』)から、『高原所系図壱冊』の記述がどこまで正しいのか見てみましょう。
 まず、火災発生時刻と場所。『鈴木2007』では「午之刻」「仙洞様御築地内、北の方、大宮御所」と、『高原所系図壱冊』の記述はほぼ間違いなし。焼失範囲は、『鈴木2007』では「上は今出川、下は下立売、西は千本通」と、これもほぼ間違いなし。
 つまり、『高原所系図壱冊』は、嘉永7年の京都大火の状況を正確に記述している、と言えます。
 ここで「何でこんなに正確な記録を持っているの?」という大きな疑問。この時期、特に郷士が京都に派遣されていたというわけでもないのに。しかも『鹿児島県史料』を見ても、見つけたのは「禁裏炎上」という言葉ぐらい。
 あくまで一つの推測としては、藩内のネットワークで当時の情勢等が藩中央から各郷に廻状として配布されていたのでしょうか。確たる証拠があるわけではないのですが、そうでも考えないと、交易等の中心でもない藩内の一郷が、なぜここまで詳細な情報を持っているのかが成立しないんですよね。


                                                                 (文責 大學 康宏)