コラム「高原町の歴史(災害編その3)」
災害(地震)について(その3)
今回もお馴染み『高原所系図壱冊』から日向国外で起きた災害を取り上げます。
安政二年卯十月二日江戸大地震ニ付同六日より薩州鹿児嶋江飛脚同十八日ニ付着
一 右卯十月二日之夜四時江戸大地震ニ付崩事十ヲニ九分之いたミ
一 江戸早員五千七百町
一 士蔵数拾壱万四千四百六十
一 御大名様方四百余
一 御旗本士方拾八万五千八百
一 寺院宮社六千弐百余
一 死人拾壱万八千六百人余
一 怪我人三拾弐万六百人余
御救小屋
上野 [貼り紙]此地震ノ為ニ黒木尚斎家屋ニうヅめられ死去ス
浅艸
窪町
外ニ九軒
〆拾壱軒
右卯十月二日夜、江戸大地震ニ而右通相損候由、江戸詰藤田真之丞殿より卯十一月申遣シ有之候、
高弐拾弐万石筑後久留米之城主有馬玄番守殿江戸御屋敷女中方百五人余死人御家老壱人其外役職
人有之由、高拾五万石松平時之助殿御歳拾壱才ニ有之候由、御家中三百五十人余乗馬拾三疋人馬
焼死之由、右地震ニ付重敷死人申来候、薩摩御屋敷数ヶ所之内桜田御屋敷曲りくつれ之内半分焼
候、けが人拾八人之内七人死人外御屋敷けが人無之由承候
「安政2(1855)年10月2日」「江戸で大地震」と言えば、世に名高い「安政江戸大地震」。この時の地震と火災により、大勢の人が亡くなりました。
文中にあるように、被害の状況が薩摩藩の江戸藩邸から鹿児島に飛脚を使っていち早く知らせが来たようです。
『斉彬公史料』における薩摩藩の被害としては、現在の東京都港区芝にあった三田の上屋敷については、嘉永7(1854)年に着手、10万両を要した完成間もない大書院等の過半が倒壊、その他式台や門・諸局・長屋等も多くが倒壊。地震当時はこういった状況のため、藩主はじめ屋敷の者は庭に避難し一夜を明かしたとか。
当時の江戸屋敷には、安政元(1854)年、藩命により、異国船用心のための江戸詰として選出された薩摩藩内諸郷48名も常駐していました。このうち高原郷からは、黒木尚斎・瀬戸口右八郎・鳥集庄兵衛の3名が選出されていました。しかし、この地震により、『斉彬公史料』によると、「此節守衛トシテ被罷登郷土衆、高原ノ士一人即死、小林衆四人半死半生、蒲生衆ハ腕ヲ折リ、或ハ腰ヲ折リ、郷土衆ニモ怪我無之人ハ稀也」という状態だったようです。この「高原ノ士一人」が高原郷から出立した黒木尚斎だったようです。後の二人はどうだったのかは不明です。付箋を貼っているので、廻文には死傷者の名前は記されておらず、個別の氏名は別の伝達方法で通知されたのかも知れません。
文中には、薩摩藩以外の事も記されています、例えば「有馬玄番守」。これは当時の久留米藩主の有馬慶頼(明治以後は頼咸)。「松平時之助」は大和郡山藩主の柳沢保申。2歳で家督を継ぎ、大地震当時は11歳。
なぜこの二藩が代表して記されているのかは不明ですが、当時の久留米藩邸は薩摩藩の高輪藩邸の近くにあった事、大和郡山藩邸は江戸城の門の一つである幸橋御門の中、つまり江戸城内にあり、三田と同じく上屋敷的な扱いを受けていた薩摩藩邸の一つが大和郡山藩邸の道路向かいにあった事、が関係しているのかもしれません(わざわざ廻文で知らせるような事でもないと思うのですが)。
(文責 大學 康宏)
安政二年卯十月二日江戸大地震ニ付同六日より薩州鹿児嶋江飛脚同十八日ニ付着
一 右卯十月二日之夜四時江戸大地震ニ付崩事十ヲニ九分之いたミ
一 江戸早員五千七百町
一 士蔵数拾壱万四千四百六十
一 御大名様方四百余
一 御旗本士方拾八万五千八百
一 寺院宮社六千弐百余
一 死人拾壱万八千六百人余
一 怪我人三拾弐万六百人余
御救小屋
上野 [貼り紙]此地震ノ為ニ黒木尚斎家屋ニうヅめられ死去ス
浅艸
窪町
外ニ九軒
〆拾壱軒
右卯十月二日夜、江戸大地震ニ而右通相損候由、江戸詰藤田真之丞殿より卯十一月申遣シ有之候、
高弐拾弐万石筑後久留米之城主有馬玄番守殿江戸御屋敷女中方百五人余死人御家老壱人其外役職
人有之由、高拾五万石松平時之助殿御歳拾壱才ニ有之候由、御家中三百五十人余乗馬拾三疋人馬
焼死之由、右地震ニ付重敷死人申来候、薩摩御屋敷数ヶ所之内桜田御屋敷曲りくつれ之内半分焼
候、けが人拾八人之内七人死人外御屋敷けが人無之由承候
「安政2(1855)年10月2日」「江戸で大地震」と言えば、世に名高い「安政江戸大地震」。この時の地震と火災により、大勢の人が亡くなりました。
文中にあるように、被害の状況が薩摩藩の江戸藩邸から鹿児島に飛脚を使っていち早く知らせが来たようです。
『斉彬公史料』における薩摩藩の被害としては、現在の東京都港区芝にあった三田の上屋敷については、嘉永7(1854)年に着手、10万両を要した完成間もない大書院等の過半が倒壊、その他式台や門・諸局・長屋等も多くが倒壊。地震当時はこういった状況のため、藩主はじめ屋敷の者は庭に避難し一夜を明かしたとか。
当時の江戸屋敷には、安政元(1854)年、藩命により、異国船用心のための江戸詰として選出された薩摩藩内諸郷48名も常駐していました。このうち高原郷からは、黒木尚斎・瀬戸口右八郎・鳥集庄兵衛の3名が選出されていました。しかし、この地震により、『斉彬公史料』によると、「此節守衛トシテ被罷登郷土衆、高原ノ士一人即死、小林衆四人半死半生、蒲生衆ハ腕ヲ折リ、或ハ腰ヲ折リ、郷土衆ニモ怪我無之人ハ稀也」という状態だったようです。この「高原ノ士一人」が高原郷から出立した黒木尚斎だったようです。後の二人はどうだったのかは不明です。付箋を貼っているので、廻文には死傷者の名前は記されておらず、個別の氏名は別の伝達方法で通知されたのかも知れません。
文中には、薩摩藩以外の事も記されています、例えば「有馬玄番守」。これは当時の久留米藩主の有馬慶頼(明治以後は頼咸)。「松平時之助」は大和郡山藩主の柳沢保申。2歳で家督を継ぎ、大地震当時は11歳。
なぜこの二藩が代表して記されているのかは不明ですが、当時の久留米藩邸は薩摩藩の高輪藩邸の近くにあった事、大和郡山藩邸は江戸城の門の一つである幸橋御門の中、つまり江戸城内にあり、三田と同じく上屋敷的な扱いを受けていた薩摩藩邸の一つが大和郡山藩邸の道路向かいにあった事、が関係しているのかもしれません(わざわざ廻文で知らせるような事でもないと思うのですが)。
(文責 大學 康宏)