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コラム「高原町の歴史(新燃岳の享保噴火その3)」

新燃岳の享保噴火について(その3)

 さて、最も有名な新燃岳の噴火は、平成23(2011)年1月。もちろんまだ覚えている方もいますが、考えたら、もう10年以上経つんですね。現在中学生の子ども達はリアルタイムで経験していない、あるいは記憶にないかと思います。
 思い起こせば1月26日の朝、明らかに噴煙の色が白から黒に変わっているのを見て、「今日噴火するんだ」という直感で家からカメラを担いで、町内を巡回しながら撮影してました。そして、同日午後、噴煙が火口から約1500mを超えたのを職場から見た時、不謹慎かも知れませんが、ただただ「すごい…」と、これまで見た事もない自然のエネルギーに感動しながらひたすカメラのシャッターを切ってました。
 その後はみなさん御存知の通り、全国ニュースのトップを飾り、「高原町」の名前が全国で有名になりました。
 初期の噴火では、まさに「灰!」という感じのきめ細かいものでした(噴火当初、あちこちの博物館から火山灰の試料採取が来てました)が、2月に入ると、当たるとそこそこ痛い石っぽいものに変化しました。
 そして3月11日、東日本大震災が発生し、東北や関東地方で大きな被害が出ました。この東日本大震災を境に役場に詰めていた記者達は高原町から姿を消し、「噴火は終わった」みたいな感慨深さが漂いました。

 ざっくりと平成噴火をまとめてみましたが、2月頃からよく話題に出たのが、享保噴火との比較です。目に見えるような噴火が減っていたので、何か他の話題で繋がないと、みたいな感じで取り上げられましたが、ちょうど新燃岳噴火前に、この享保噴火を取り上げた記事を書いていた広報たかはるが全部持って行かれた事には驚きました。

 一応、どんな事が書かれているのかチェックはしていたのですが、改めて新燃岳の享保噴火に向き合ってみようと思ったのが、とある新聞の記事でした。「当時の様子を記した文献は多く・・・」から始まって、どの文献を取り上げるのかと思ったら、何故か昭和初期に刊行された『高原郷土史』。まず、参考文献の記載もない(それが文献に基づく内容なのか、筆が乗りまくった創作なのか、の区別ができない)郷土史を「当時の様子を記した文献」と呼べるのか、という所から始まり、「(昭和初期に書かれたものを)現代語訳にしてもらいました。」とあった時点で、ちょっと頭が痛くなりました。

 この記事を見た時、「改めてちゃんと文献を探してまとめよう」と決意しました(二度ほど研究誌には掲載しました)。
 次は、資料に沿って、享保噴火を追い掛けてみましょう。


                                                                 (文責 大學 康宏)