ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 組織でさがす > 教育総務課 > コラム「高原町の歴史(新燃岳の享保噴火その4)」

コラム「高原町の歴史(新燃岳の享保噴火その4)」

新燃岳の享保噴火について(その4)

 広報たかはる等の公共のメディアで新燃岳の享保噴火を語るとその後に噴火するというジンクス?が以前からあったのですが、こちらのHPで新燃岳の享保噴火を連載した途端、令和7年6月22日、7年ぶりに新燃岳が噴火しました。今回の噴火は、正に「灰神楽」というもので、似たような噴火であった平成23年1月28日の噴火を思い出しました。

 さて、話を享保噴火に戻しましょう。噴火の始まりはいつなのか?様々な文献を見ると、今のところ『古今山之口記録』にある「正徳六年(1716)閏二月十八日」が一番最初かな、と。「享保でしょ?」と思うかも知れませんが、その年の六月に正徳から「享保」に改元されました。
 その時の噴火ですが、「霧島山大燃」とあるのみで、どれぐらいの被害があったかは不明です。「霧島山」とある事から、具体的にどの山が噴火したかもよくわからなかったのかもしれません。
 ちなみに『古今山之口記録』は、現在の都城市山之口に置かれた山之口郷の行政文書で、信頼性の高い文献です。
 あと、霧島東神社文書の『霧嶋山佛華林寺狭野世譜』(宮崎県史所収)を見ると、「享保元丙申歳二月十八日、雷鳴震動黒烟忽満転火坈於両部之池」とあります。2月なのに「享保」と書いてる辺りが、後で編集したのかなあ、とも思うのですが。それと、池の名前も書いているのですが、これが本当に今の新燃岳を指すのかは不明です。高千穂峰の寄生火山である御鉢と誤認しているのでは?とも思うのですが。

 そして次の噴火は同年3月。『高原所系図壱冊』(高原町史料集一を参照)には「正徳五年申三月」とあるのみ(正徳五年は六年の誤りと思われます)。先ほどの『古今山之口記録』には「同年三月十六日」と具体的です。噴火の場所ですが、『古今山之口記録』では、「霧嶋嶽釈迦之嶽ト云西之方ニ当り火穴始大燃」とあります。「霧嶋嶽釈迦之嶽」は今の高千穂峰、高千穂峰の西方にある火穴とあるので新燃岳を指してそうですが、むしろ当時、度々噴火している事で有名であった御鉢を指していると考える方が自然かと思います。
 一方、非常におもしろいのが『高原所系図壱冊』の記述で、「霧嶋山三山之邊ニ燃仕出」とあります。これを書いた永濱氏は、一番具体的に噴火場所を見る事ができる、高原郷の花堂地区に居住していました。つまり「三山」とあるのは、花堂地区から見た「中岳」「矢岳」「新燃岳」の総称ではないか、と考えられるわけです。気になる方は、google mapで花堂橋から霧島を眺めてみてください。


                                                                 (文責 大學 康宏)